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GMW(Gustav Mahler Werke, グスタフ・マーラー作品番号:国際グスタフ・マーラー協会による)を公開しました。(2025.4.20)

2025年5月6日火曜日

備忘:マーラーの音楽における「老い」についての論考に向けての準備作業 (16):ここまでの振り返りと補足 (最終更新2025.5.6)

 まず、マーラーの生涯に関するクロノロジカルな資料の確認と検討。

  • 「一からやり直す」:ブルノ・ヴァルター宛1908年7月18日トーブラッハ発の書簡にあるマーラーの言葉(1924年版書簡集原書378番, p.410。1979年版のマルトナーによる英語版では375番, p.324)
  • 老後への準備・死後への準備としての退職一時金・年金:1907年夏のマーラーより宮内卿モンテヌオーヴォ侯への書簡と、それに対する返信である1907年8月10日ゼメリング発の宮内卿モンテヌオーヴォ侯よりマーラーへの書簡
  • 後期ベートーヴェンへの評価:アルマの回想録の中の「結婚と共同生活 1902年」の章の末尾のベートーヴェンを巡ってのシュトラウスとの対話→アドルノ「ベートーヴェンの晩年様式」へ
  • 「老グストル」:アルマの回想の「出会い(1901年)」の章および書簡 

 ついで、公開済の自己の過去の記事で関連したものを確認(第9や第10についての過去の記事については再確認必要)。

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 幾つかの個別作品に関するモノグラフ。

  • 「大地の歌」
    • Hefling, Stephan E., Mahler : Das Lied von der Erde, Cambridge University Press, 2000
    • Danuser, Hermann,Meisterwerke der Musik : Gustav Mahler, Das Lied von der Erde, Wilhelm Fink, 1986
  • 第9交響曲
    • Holbrook, David, Gustav Mahler and the courage to be, Vision Press, 1975
    • Andraschke, Peter, Gustav Mahlers IX. Symphonie, Kompositionsprozess und Analyse, Franz Steiner, 1976
    • Lewis, Christopher Orlo, Tonal Coherence in Mahler's Ninth Symphony, UMI Research Press, 1983
    • Pensa, Martin, ≫Ich sehe alles in einem so neuen Lichte≪ Gustav Mahlers Neunte Sinfonie, edition text+kritik, 2021
    • Wreford, Kathleen Elizabeth, A critical examination of expressive content in Mahler's ninth symphony, MaxMaster University, 1992:この論文では分析として、Diether, Holbrook, Lewis, Greene, Micznikのものが取り上げられているようだ。
  • 第10交響曲
    • Rothkamm, Jörg, Gustav Mahlers Zehnte Symphonie : Entstehung, Analyse, Rezeption, Peter Lang, 2003
モノグラフではないが、例えば以下の中に含まれる後期作品についての章も確認しておくべきだろうか。
  • Newlin, Dika, Bruckner Mahler Schoenberg, 1947, revised edition, W. W. Norton, 1978:「大地の歌」、第9交響曲。第10はアダージョのみ。
  • Greene, David B., Mahler, Consciousness and Temporality, Gordon and Breach Science Publishers, 1984:第9交響曲
  • Downes, Graeme Alexander , An Axial System of Tonality Applied to Progressive Tonality in the Works of Gustav Mahler and Nineteenth-Century Antecedents , University of Otago, Dunedin, New Zealand, 1994:主として第9交響曲だが、「大地の歌」、第10交響曲も。
  • Micznik, Vera, Music and Narrative Revisited: Degrees of Narrativity in Beethoven and Mahler, in Journal of the Royal Musical Association, 126, 2001 :第9交響曲第1楽章
  • Pinto, Angelo, Mahler's Search for Lost Time : a "Genetic" Perspective on Musical Narrativity, Gli spazi musica, vol.6 n.2, 2017:第10交響曲
  • Pinto, Angelo, On this side of the compositing hut. Narrativity and compositional process in the fifth movement of Mahler’s Tenth Symphony, De Musica, 2019 – XXIII (1):第10交響曲第5楽章

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 既に一度振り返ってみたがもう一度、2008年より前に遡る、だが日付は最早確定できなくなってしまっている以下の「後期」に関する備忘の元の意図と志向とを確認しなおすべきかも知れない。結局、今、ここで問おうとしていることは、そこでの疑問のヴァリアンテに過ぎない。

後期様式
眼差しのあり様。「現象から身を引き離す」というのがことマーラーの場合に限れば最も適切。しかし、人により「後期」は様々だ(cf.ショスタコーヴィチ)。
ヴェーベルンの晩年とマーラーの晩年のアドルノの評価の違い。いずれも「現象から身をひく」仕方の一つではないのか? こちら(マーラー)では顕揚されるそれと、あちら(ヴェーベルン)の晩年にどういう違いがあるのか?

作曲年代の確認
「大地の歌」1907~?1908~?:実は異説があるようだ。
「大地の歌」第1楽章については、かつては違和があった。今のほうがよくわかる。こうした感情の存在することが。そういう(多分にnegative―そうだろう?)な意味でこれは成年の、否、後期の(晩年、ではないにしても)音楽なのだ。

マーラーに関するシェーンベルクの誤り
いわゆる「第9神話」にとらわれたこと。マイケル・ケネディの方が正しい。第10、第11交響曲を考える方が正しい。
マーラーは本当に発展的な作曲家だった。
だから第9交響曲は行き止まり等ではない。
確かに第10交響曲は「向こう側」の音楽かも知れない(これを第9交響曲より現世的と考える方向には与しない。) けれどもマーラーは途中で倒れたのだ。マーラーの死は突然だったから本当に途中で死んでしまったことになる。

マーラーの第10交響曲こそが最も近しく感じられる。
この不思議なトポス、だけれども、これは存在する、そうした場所はあるのだ。少なくとも残された者の裡においては。それ自体、何れ喪われるものであっても、それは存在する。全くのおしまい、無というわけではない。
それは「喪」そのものかも知れないが、喪のプロセスは残された者の裡には存在する。
マーラーがこの曲を、特に第1楽章以降を書いたのは、不思議だ。彼は確かに危機にはあったし、己の死を意識してはいただろうが、でも死に接していたわけではない。

この曲の、少なくともAdagioに、早くから惹きつけられた。
14歳になるかならぬかの折、最初に私がマーラーについて書いた中で引用したのは、まさにこの曲だった。他ならぬこの曲だった。
それを子供時代に聴くというのはどういう事だったのか?
否、「現象から身を引き離す」ことは、いつだって可能だ。ただし有限性の意識はあっても、クオリアは異なる。かつての宇宙論的な絶望と、今の生物学的な絶望との間には深い淵が存在する。

回想という位相。(かつての)新しさの経験。異化の運命。後期様式による乗り越え。
風景の在り処。現実感は希薄。回想裡にある。かつて現実だった?「だったはずの」?

確かにマーラーは何か違う。
consolationなのか、カタルシスなのか。Courage to Be(ホルブルック)という言い方に相応しい。それを「神を信じている」という一言で済ませるのは何の説明にもなっていない。その「肯定性」―それはショスタコーヴィチとも異なるし、例えばペッティションとも異なる― について明らかにすべきだ。
救済は第8交響曲にのみしかない訳ではないだろう。マーラーは規範や理論に従って「約束で」長調の終結を選んだわけではない。強いられたわけでもない。
とりわけ第10交響曲の終結がそれを強烈に証言する。
一体何故、このような肯定が可能なのか―ハンス・マイヤーの言うとおり、これは「狭義」の信仰の問題ではない筈だ。
懐疑と肯定と。

アドルノのベートーヴェンの後期様式についてのコメントをマーラーの後期様式と対比させること。案に相違してベートーヴェンの閉塞と解体に対して、マーラーは異なった可能性を示したのかも知れない。アドルノのことばは、その消息についてははっきりと語らない。
一見したところ、両者の身振りは極めて近いものがある。だが、並行は最後まで続くのか?
寧ろ一見したところ厭世的に受け取られることの多いマーラーの方が「他者のいない」ベートーヴェンよりも、 異なった可能性に対して開かれていたのでは、という想定は成り立つ。(これは同じくベートーヴェンとマーラーについてのモノグラフを持つGreeneの立場とも対比できるだろう。)

アドルノのles moments musicauxの邦訳のうち、ベートーヴェンの後期様式やミサ・ソレムニスについてマーラーの「大地の歌」, 第9交響曲, 第10交響曲そして第8交響曲と対照させつつ検討する。

ホルブルックのCourage to Be(第9交響曲)と大谷の「喪の仕事」(「大地の歌」に関して)を組み合わせて考える。
「個人的な「大地の歌」―第9交響曲における普遍化」というのは成立するのだろうか?

ところで、ホルブルックの「結論」(p.213)はどうか?
多分正しいのだろうか―これは私の求めている答ではない。 では答はどこにあるのか? そもそもマーラーにあるのか? 勝手読みは(ハンス・マイヤーの心配とは別に)必ず無理が来る 「感じ」が抵抗し、裏切るのだ。 頭で作り上げた「説明」は、どこかで対象からそれてゆく。 一見、ディレッタンティズムに見える―衝動に支えられた―探求の方が、より対象に踏み込めるに違いない。
あるいは、「実感」が追いつかない―忘れてしまった―否、そんなことはない。 まだ「わかっていない」だけかも知れない。 ここに「何かがある」のは確かなことだ。 自分が求めているものとぴったり同じではない可能性も否定できないにせよ自分にとって限りなく 重要な何かあがあるのは確かだ。
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 だが、それよりもマーラーの(作品ではなく本人の)「晩年」を規定することは、既に以前、マーラーの生涯についての覚書を認めた時に試みていた。以下にその晩年についての記述を、当時の認識を確認するために再掲しておく。

晩年
マーラーの晩年は、歌劇場監督を辞任しウィーンを去る頃より始まると考えて良いだろう。 長女の猩紅熱とジフテリアの合併症による死、自分自身に対する心臓病の診断という、 アルマの回想録で語られて以来、第6交響曲のハンマー打撃とのアナロジーで「3点セット」で 語られてきた出来事は、それを創作された音楽に単純に重ね合わせる類の素朴な 伝記主義からはじまって、これも幾つものバージョンが存在する生涯と作品との関係をひとまずおいて、 専ら生涯の側から眺めれば、確かに人生の転機となる出来事だったと言えるだろう。 これを理解するのには別に特別な能力や技術どいらない。各人が自分の人生行路と重ね合わせ、 自分の場合にそれに対応するような類の出来事が起きたら、自分にとってどういう重みを持つものか、 あるいはマーラーの生涯を眺めて、マーラーの立場に想像上立ってみて、上記の出来事の重みを 想像してみさえすれば良いのだ。それが音楽家でなくても、後世に名を残す人物ではなくてもいいのである。 逆にこうした接点がなければ、私のような凡人がマーラーの人と音楽のどこに接点を見出し、どのように 共感すれば良いのかわからなくなる。

だが、その一方で、マーラーがそれを転機と捉えていたのは確かにせよ、己が「晩年」に 差し掛かったという認識を抱いていたかについては、後から振り返る者は自分の持っている 情報による視点のずれに注意する必要はあるだろう。マーラー自身、自分の将来に控える 地平線をはっきりと認識したのは間違いないが、それがどの程度先の話なのか、それが あんなにもすぐに到来すると考えていたのかについては慎重であるべきで、この最後の 設問に関しては、答は「否」であったかも知れないのである。もしマーラーがその後4年を 経ずして没することがなかったら、という問いをたてても仕方ないのだが、もしそうした 想定を認めてしまえば、今日の認識では「晩年」の始まりであったものが、深刻なものでは あっても、乗り越えられた危機、転機の一つになったかもしれないのである。丁度30歳を 前にしたマーラーが経験したそれのように。だとしたら現実は、そうした転機の危機的状況から 抜け出さんとする途上にマーラーはあったと考えるのが妥当ではないかという気がする。

要するに、ここで「晩年」として扱う時期は、その全体がブダペスト時代や、ウィーンの前期のような移行期、「相転移」の時代であったかもしれず、この時期を過ぎれば新しいフェーズが 待ち受けていたかも知れないのだ。だが、実際には次のフェーズはマーラーには用意されて おらず、移行の只中で、それを完了することなくマーラーは生涯を終えてしまったように 私には感じられる。第1交響曲(当時は5楽章の交響詩)、第5交響曲がそれぞれ 移行の、相転移の終わりを告げる作品であったように、第10交響曲がその終わりを告げる 作品であったかも知れないが、第10交響曲は遂に完成されることはなかった。

この最後の部分の第10交響曲についての見解は、再検討するに値する。というのも、もし次のフェーズが準備されていたものが、偶発事によって断ち切られてしまったという認識に立つならば、アドルノが述べるところの「後期・晩年様式」やシェーンベルクの「プラハ講演」での第9交響曲や第10交響曲についての了解は、少なくとも作曲者側の「老年・晩年」とは別のものであり、事によったら、そこに「後期・晩年様式」を見いだしたり、乗り越え難い一線を見いだすのは後知恵の産物であるということにもなりかねないからである。(ただし、上でのアドルノの「後期・晩年様式」とシェーンベルクの「プラハ講演」での第9交響曲や第10交響曲へのコメントの並置はアドルノの側から拒絶されるかも知れない。というのも、マーラー・モノグラフの第2章「音調」におけるシェーンベルクへの言及(アドルノ『マーラー 音楽観相学』, 龍村あや子訳, 法政大学出版局, 1999, p.40~41 参照)を確認する限り、アドルノはシェーンベルクの「プラハ講演」での第9交響曲についてのコメントを、「後期・晩年様式」の作品としての第9交響曲についてのものとは考えていなかったように受け取れるからである。だがそうしたアドルノの姿勢はそれとして、ではシェーンベルクの側はどうであったかを確認すると、こちらはこちらで、文脈からしてもシェーンベルクはそれをマーラーの作品一般に成り立つこととして述べたというよりは第9交響曲の特徴として述べたように見えるし、それがマーラーが晩年に到達した境地であると考えていたと捉えるのが自然であると私には感じられる。この点に限って言えばアドルノのくだんの参照の仕方はやや我田引水の観無きにしもあらずで、従って、アドルノの姿勢を確認した上でなお、敢えて上記の併置を撤回することはしない。尤も、シェーンベルクが第9交響曲について指摘するような事態を可能にするような構造がマーラーの作品一般に備わっているという点についてはアドルノの見解に対して異論があるわけではないことも、併せて記しておくことにする。 

*  *  *

 以下の、様々な文献の参照のうち、「老い」一般ではなく、マーラーという個別のケースに関わるもののうち、「晩年」という規定が事後的なものに過ぎず、実際には「相転移」の只中にいたという見解と矛盾することなく両立しうるものは、唯一マイケル・ケネディの見解であるということになろうか。

  • ジャンケレヴィッチ『死』における『大地の歌』についての言及、「別れ」について
  • ゲーテ=ジンメルにおける「老年」:ジンメル『ゲーテ』
  • アドルノにおける「後期様式」
  • マイケル・ケネディのマーラーは創造力の絶頂で没したという見方
  • 吉田秀和のマーラーの後期作品、特に「大地の歌」に対するコメント
  • アドルノのカテゴリにおける「崩壊」「解離」からReversの言う「溶解」へ:Revers Gustav Mahler Untersuchungen zu den spaeten Sinfonien はタイトルが示す通り、枠組みとして「後期」にフォーカスしている点で特に注目される。対象は『大地の歌』、第9交響曲、第10交響曲。
 更に旋法性に関するピッチクラスセットの拍頭における出現頻度の分析。アドルノ、柴田南雄、バーフォードを参照しつつ、付加六から五音音階へ、更に全音音階へ:五音音階性の優位は少なくとも中期から顕著になり、おおまかな傾向としては時期を追う毎に強まる傾向にあって、マーラーの様式の推移を測る手がかりたりえている。更に全音音階性は後期作品に見られる固有の特徴と言って良い。勿論、それが全てではないのは当然のことながら、全音階性から、五音音階へ、更に全音音階へということで、マーラーの様式変遷を跡付けることは可能だろう。

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 結局のところ、残された作品について言えば、「大地の歌」や第9交響曲に間違えようなく存在する、この世からの「別れ」の思い、自己の生命の有限性に対する、可能性としての理性的な認識とは異なる、現実にじきに訪れるものとしての了解を否定することはできまい。その生涯についても、アルマの回想が自己正当化を目的とした歪みに満ちたものであるとして、書簡に残されたマーラーの姿は、医学的水準では「誤診」であったという事実をもってその「診断」がマーラーその人の意識に与えた不可逆でかつ痛ましい影響を無かったことにすることの行き過ぎを咎めているようにしか思えない。我々にとってマーラーの「晩年」が事後的なものに見えたとしても、マーラー本人にとって「晩年」は疑いなく存在していたと言うべきではないのか?

 これはほんの一例だが、マーラー同様、フレンケルが治療に当たったからという訳でもないのだが、例えばシベリウスが第4交響曲を作曲していた時期を比較対象として思い浮かべてみたらどうなるか?だがこの比較は不完全なものにならざるを得ない。シベリウスの第4交響曲は、病から癒えた後に構想され、着手された作品だからだ。それではショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲第8番はどうだろうか?この作品が自らの墓碑銘として書かれたのは事実であり、ことによったら本当にその後自殺をしたかも知れないとしたら?だが、マーラーの場合とは異なってここでは「老い」は問題にならないし、それに応じて「別れ」の持つ意味も違ったものとならざるを得ない。ショスタコーヴィチならば寧ろ(交響曲第14番ではなく)、交響曲第15番、ミケランジェロ組曲、弦楽四重奏曲第15番、或いはヴィオラ・ソナタを思い浮かべるべきだろう。

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 こうして見ると、個人的にはそうした見方には与しないものの、「芸術が人生を先取りする」といった類の言葉がマーラーについて語られるのは、それなりに理由がない訳ではないことの方は認めざるを得ないような気持ちにさえ囚われてしまうことを避け難く感じる。そこに「死」を見い出すことの方は確かに後知恵かも知れなくとも、そこに「老い」と「別れ」を見い出すことは寧ろ避け難いのではないか?そうだとしたら、もう一度、アドルノの「後期様式」の指摘は、第9交響曲に関する「死が私に語ること」に対する拒絶ともども正当であるということになるだろう。

 だが、それでもなお、剰余が存在する。アドルノが拒絶した、5楽章の構成を持つものとしての第10交響曲の問題が残る。あのフィナーレの音調をどう受け止めるべきかの問題が。否、それはアドルノの立場では、端的に「存在しない」のだろう。だが「存在しない」ものについて語っても仕方ないということになるのだろうか?だが、最大限譲歩しても、スケッチは完全な形で遺された。アルマに破棄を命じたかどうかはともかく、シベリウスが第8交響曲に対して行ったアウト・ダ・フェは、マーラーの第10交響曲には生じなかったが故に、我々はそれがどんなものであり得たかについて知ることができる。そしてその限りにおいて、「大地の歌」と第9交響曲に対して、第10交響曲とそれらとの間には断絶が存在したのだろうか?ここで、こちらについては存在「しえたか?」ではなく存在「したか?」であることに注意。だがそれを判断しようとした時、アドルノが拒絶した理由が回帰することを認めざるを得ない。それが水平的にも垂直的にも未確定であるとしたら、その状態での分析の結果には一体どのような意味があるのだろうか?ましてやクックによる補作に基づく分析にどのような意味があるのだろうか?以下の補足では、マーラーが作品を「抜け殻」であると述べたことについて言及するが、それを先取りして、だが第10交響曲に関しては別の問題があることに留意しておくべきだろう。第10交響曲は「抜け殻」なのか?未完成の「抜け殻」とは一体どういうものなのか?

 とはいえ実際には、そうした問いに一旦頬被りを決め込んで、クック版に基づいた分析を私は既に行い、公開さえしている。そしてその結果は、「大地の歌」、第9交響曲との或る種の連続性を示しているように思われる。しかもそれはアドルノの指摘に導かれてデザインされた分析の結果なのだが…その時、マーラーの生涯の動力学的把握において、「晩年」が総体として、移行期、「相転移」の時代であったかもしれず、この時期を過ぎれば新しいフェーズが待ち受けていたかも知れないのに対応して、第10交響曲は、交響詩「巨人」や第5交響曲がそれぞれ移行の、相転移の終わりを告げる作品であったように、「相転移」の終わりを告げる作品であったかも知れないが、遂に完成されることはなかったと認識されたことが思い浮かぶ。それが「晩年様式」であるかどうかは措いて、第10交響曲は、もし次があったとするならば、いわゆる折り返し点、過渡的な作品であったように見えるということだ。15年も前の、データ分析の着手からさえも遥かに先行する時期の直観に過ぎないが、現時点でもその直観は基本的に正しいと私は考えているし、現時点でのデータ分析の結果は、少なくともそれと矛盾はしていないようだ。もしそうであるならば、具体的な生涯における「老い」や「晩年」との関係さえ一旦括弧入れした上で、「大地の歌」と第9、第10交響曲に見られる特徴を抽出する作業を進めるべきなのかも知れない。
 
(2023.6.9公開、6.10-13,16,23,25, 7.6加筆, 2025.5.6 前半を分離し、改題の上再公開)

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